分からないっていう一言

本当に私って日曜日になるとすることが無いんですね。

仕事だけの人間って寂しくて、仕方が無いのかもしれません。

何をすればいいのか?分からないのです。時間の使い方が下手なんでしょうか?与えられたことだけを仕事として、ただただ仕事してきて、何もしない日が1日もあると心配で、教室に向かったり、居場所がほしいのかも。少し前のように毎月ある月末の長期休暇にどこかに行けばよいのに、それも近頃はしていません。

仕事がなくなったらと思うことすら考え宅もありませんが。

 

 

本日2度目の投稿です。パソコンに向かってたら思うところがあって、書き綴ってしまいます。

 

先週のことでした。「分からへん」と投げ出す生徒たちが言っています。

投げ出すのは、本当に「分からない」からなんでしょうか?

いままで、分からないなら仕方ないのかなと感じると同時に、ずっと違和感を感じてきました。(分からなければ講師たちが必ず、どこをどうわからないのか確認して指導します)

そんな生徒達の行動がアドラーの目的論によって違和感なく理解出来ることに気づきました。

 

私が感じるのは、「分からない」は必ずしも投げ出す理由にならないのだということです。

分からないからこそ考えて、目の前の一問に何日も考え抜いたりする生徒が、私どもの学習塾にもいるのです。先日、数学で初めてのクラストップをとったという2人の生徒は、このような生徒でしたし、そのほかの生徒たちも勉強が苦手でも、このように取り組む生徒もいます。

 

じゃあ、なぜ生徒によって投げ出してしまうことがおきるのでしょうか。

アドラーの目的論によって説明すると次のようになります。

「分からない」から「投げ出す」のではなくて、

「投げ出す」ために「分からない」のである。

 

つまり、「分からない」が理由で投げ出すのではなく、投げ出すのが目的のために「分からない」を利用しているのです。

このような生徒は投げ出すために使えそうな理由をあれもこれも考え出します。

その中でも「分からない」という理由は簡単に使えるのでしょう。この一言を言うだけで怒られることもなく、目の前のめんどくささから一瞬のうちに逃げ出せるのです。

この「分からない」は自分が外に向かって発信しているだけでなく、自分にも向かって発信しているように感じます。この一言で投げ出してしまう自分をも身勝手にも納得させてしまう怖い言葉なのです。

と、ふと感じました。  少しめんどくさくなってきましたので、この辺で

めんどくさい という言葉で、逃げてしまっている私でした。

 

家族に「うっとおしい」と言われています。

これから、ビール飲んで酔っ払ってやるー。  と、その前に、スーパーに言って食料を買いに行かなきゃならんね。

では、この辺で

 

IMG_0776